母の実家は足利市五十部(ヨベ)町にありました。
渡良瀬川のすぐ近くで、土手まで100メートルほどの小さな家だったと思います。囲炉裏を焚くせいか、中は煤けて薄暗く、黒光りした土間の梁には、小さな川舟が縛り付けられていました。昔から渡良瀬川はしばしば氾濫を繰り返したので、避難のための備えだったようです。
五十部町あたりの渡良瀬川は川幅が200メートル位と広く、堤防の中には本流の他にも小さな流れがいくつもあります。その何ケ所かに祖父は「胴」と呼ばれる篭簗を仕掛けていて、うなぎが捕れると近くの料亭に持ち込んでいました。そんな日はご機嫌でお酒を飲み、優しい祖父でした。
小学3年の夏休みは一人で祖父の家に向かいました。東武鉄道で足利市駅まで行き、バスで向かいますが、車掌さんに気遣ってもらい、バス停で降ろされたので不安はなかったです。その夏休みは祖父のあとについて川に行き、濡れて重い胴をひとつあげさせてもらったのですが、中には小さな川エビが何匹かだけで、残念ながらウナギは捕れませんでした。
渡良瀬川では毎夏、盛大な花火大会が開催されています。昔から幾多の洪水で亡くなられた方々の慰霊を目的としているようですが、とても盛大で毎年夏が楽しみでした。何度も家族で出掛けています。
翌年、体調を崩した祖父を母が連れ帰りましたが、家族に看取られながら亡くなりました。誰も住まない足利の家も無くなり、その後、渡良瀬川に行くことはありませんでした。
6年生の時にはお盆で集まった叔母に誘われて、足利の小俣町に向かいました。住まいは山が迫った屋敷の一角で、土蔵を住まいに代えた建物だったことを覚えています。外見は土蔵のままですが、人が住めるように工夫されていました。2階の格子窓からは水田が続き、手前には水量豊富で水のきれいな小川が見えます。流れが速く、水草が真横になびいて激しく揺れています。水が透明で吸い込まれそうな怖さでした。
その屋敷地内で子供たちの遊びに誘ってもらったのですが、遊びは「じゃんけん」から始まります。順番を決めるのも、鬼を決めるのも、小さな子も大きな子も真剣勝負です。その時戸惑ったのが掛け声の違いでした。太田の私は「チッ、カン、ポイ!」でしたが、小俣では「オ、チィ、キッ!」で始まりました。初めはその掛け声に驚きましたが、すぐに慣れて、自分でも「オ、チィ、キッ!」となります。こうして「じゃんけん」も、それぞれの土地で違うことを知りました。
小俣町の里山は美しく、一度で好きになりました。水がきれいで豊富な小川があり、背後には裏山が続いています。上には面白い名前のお寺があると教えてもらい、午後に行ってみました。お寺までは車の通る道路を歩きましたが、子供の足で30分ほどかかったでしょうか。鶏足寺(ケイソクジ)という名のとても古いお寺でしたが、どうしても行ってみたいと思ったのです。それは2年前に祖父が亡くなったときのこと。弱っていた祖父に元気をつけさせたいと、飼っていたチャボを1羽つぶされたのです。つがいの雄でしたが、首を落とされてから数歩ほど歩いて倒れました。そのことが忘れられず、供養したかったのかも知れません。
戻りは明るい山道を下り、途中からは家々の屋根を目当てに歩きました。だいぶ下った頃に突然白い像が目に入ったのです。近寄って見ると、大きな台座の上に立つマリア像でした。真っ白いきれいな姿で優しいお顔だったと思います。小高く明るい丘の上にマリア像が立っている。理解できないまま、しばらく見とれていました。
後年知ったのですが、マリア像が小俣幼児生活団の裏庭にあること、生活団を創設し運営する大川家が、カスリーン台風の死者を弔う目的で建立したらしいことを、あるブログで知りました。私以上に「赤城山が好き」さんのブログにある2015年11月の記事と写真を見て、同じマリア像だったことに気付きました。今は木立に囲まれて静かな佇まいですが、60年前に見てから気になっていたマリア像が実在していたのです。
1947年のカスリーン台風は関東地方に多くの被害をもたらしました。中でも群馬・栃木を流れる渡良瀬川流域の被害は甚大で、ある資料によれば、死者不明者は桐生市で146名、足利市で319名を数えます。強大な台風でしたが、被害を拡大させた原因の一つが、上流部にある足尾銅山の存在です。明治期以降、足尾銅山は富国強兵政策を進める国に応え、新鉱脈の発見もあって増産が続きます。江戸時代の1684年頃に1500tほどだった年間採掘量は、1916年には1万4千tを超えて東洋一の銅山となっています。こうした増産を支えるために、足尾山地の木々が坑木や燃料用に伐採され、加えて精錬工場から排出された亜硫酸ガスで、大気汚染が深刻化していきます。広範囲で木々が枯死し、鉱山周辺の3ケ村は、その後次々と廃村に追い込まれたのです。さらに鉱石の精錬で生じる大量の鉱山くずが、各所の堆積場に廃棄されました。その結果、足尾山地に降った雨は、山の表土を削って土砂を巻き込み、渡良瀬川を一気に流れ落ちたのです。こうして鉱山性有毒物質を含む洪水に度々見舞われた、これが足尾鉱毒事件です。被害地域は群馬県では大間々町・桐生市・太田市・邑楽町・館林市など、栃木県では足利市・佐野市、さらには茨木県古河市や霞ケ浦までの広範囲に及びました。
この問題を帝国議会に上程して政府を質したのが、栃木の国会議員だった田中正造翁です。翁は天皇直訴事件後に議員を辞し、私財を投げうって被害民の救済に尽くします。鉱毒の沈殿池として旧谷中村が廃村されたときも、先頭に立って農民と共に闘いました。旧谷中村一帯は現在、自然豊かな渡良瀬川遊水地として、ラムサール条約に登録されています。しかし田中正造翁と農民の無念な想いは、ここに確かにありました。公害の原点といわれる足尾鉱毒事件ですが、母が渡良瀬川のすぐ近くで育った私には身近な問題でした。
足尾銅山は1973年に採掘を終えますが、閉山後の1980年代まで、輸入鉱石による精錬が続きます。その後も大雨のたびに堆積場の崩壊などで鉱山くずが流出し、渡良瀬川の洪水は幾度となく繰り返されたのです。
こうした中で、群馬県山田郡毛里田村(現太田市只上町)は長年鉱毒による深刻な土壌汚染に苦しみ、特に農業被害が深刻でした。こうして毛里田村は必然的に公害運動の中心となります。1971年には村の産米からカドミウムが検出され、生活の糧である米の出荷が停止されます。その翌年に群馬県は、米の汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定したのです。これに力を得て、鉱毒根絶既成同盟会会長だった板橋明治氏が中心となり、粘り強い交渉が行われました。「ああこのことか・・」と思い至ったのが、父や叔父の小声話でした。「モリタガケルヨウダ・・・」。農民は水で繋がっています。上流から下流に農業用水が流れ、多くの田で利用されている。水の少ない年には争いもありますが、それでも農民の関係は村の境界を超えて繋がっています。
毛里田村の活動で特筆すべきは、調停代理人を外部に頼らず、板橋明治氏がリーダーとなって独学で村民と共に団結して闘ったことです。その成果は極めて大きいものでした。1974年に調停が成立し、多額の補償金の支払いと、調停案に盛り込まれた土地改良事業「公害防除特別改良事業」に巨費が投じられました。しかも事業費の51%を加害原因者の古河鉱業が負担したのです。この事業において被害農民の金銭負担は一切無く、被害農民が受け取る補償金は非課税とするなど、画期的な調停だったと言われています。
足尾に始まり、水俣病やイタイイタイ病などの企業活動による公害が多発していた時代、高度成長の豊かさが一方では被害者を生み、苦しめていることを知ることは辛いことでした。しかし田中正造翁や石牟礼道子さんを始めとした著作を読む機会を得て、自問自答しながら考えることも多かったと思います。
近年も全国で大きな災害が度々起きています。中でも想定を超えた雨量がもたらす水害は、毎年のように発生しています。東日本大震災では、津波で流出した様々な災害ごみが太平洋を越え、アラスカ・カナダ・アメリカ・ハワイに漂着しました。そして一部は今も広く、海を漂う巨大なごみの浮島となって漂流しています。
一度災害が起これば、災害ごみが海へ流出することが避けられない島国の日本。その時でも分解されて自然に戻る素材が多くなれば、少しでもお役に立てるのではないかと、カフェグッズは考えています。
2021 年 4 月
小林 文夫
以下の情報を参考にさせていただいきました。この場で各位に感謝し、お礼を申し上げます。
① 足尾鉱毒事件(Wikipedia)
② 日光市・足尾銅山の歴史:https://www.city.nikko.lg.jp/bunkazai/ashiodouzannorekisi.html
③ 渡良瀬川河川事務所ホームページ:https://www.ktr.mlit.go.jp/watarase/watarase00003.html
④ 衆議院(足尾鉱毒事件と田中正造):http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/130kinen/110nensi/h10340.htm
⑤ 内閣府・防災情報のページ:第2章-カスリーン台風と渡良瀬川流域(PDF): http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1947_kathleen_typhoon/
⑥ ボウサイホームページ・日本で起きた災害一覧:https://www.7mate.jp/saigai/
⑦ 「赤城山が好き」さん:http://ryn0719.livedoor.blog/archives/2587910.html