駆け出しの営業マンだった頃ですが、ハンバーガーショップに興味を持っていました。新しく登場したフードビジネスということもありますが、私の中では単純に売り上げが見込めるから、という気持ちが強かったと思います。その理由は使用するパッケージが多いこと、特にディスポーザブル(使い捨て)パッケージは魅力でした。
具体的にはハンバーガーラップ(包装紙)にクラムシェル(バーガー容器)、フライドポテトの平袋やカートン類とサイドメニューの容器類があります。さらに飲料用紙コップやリッド(蓋)、ストローにマドラー、テイクアウトの紙袋などと続きます。加えて消耗品類もあるので、業者目線ですが大きな取引が期待できるのです。これを逃したら企業としての成長は望めない、そう考えてもいました。
1970年から始まった日本のハンバーガーショップ(ファーストフードショップ)は、2月にダイエーのドムドムから始まります。7月にケンタッキー・フライド・チキン、同じ年には東食ウインピーとミツカンのハンダスが産声を上げています。そして翌1971年7月に藤田商店のマクドナルド1号店が銀座三越に登場します。その後も新規参入は続き、1972年にはモスバーガー、デイリークイン、ロッテリアが相次いで出店。続いて1974年にはロイヤルが話題の超高層、新宿三井ビルにレストランとハンバーガーショップを出店します。ハンバーガー店の名前はロイヤルホストジュニアで、多店舗展開のための実験店としての出店でした。さらに1975年に森永ラブ、1976年に兼松のハーディーズと続きます。1980年代になると高級路線や差別化が始まり、ダイエーのウェンディーズやニチイのアービーズが参入しています。ファミリーレストランが、高度成長とモータリゼーションの台頭に支えられてスタートした同時期に、ファーストフードはライフスタイルニーズに応える形で登場し、発展していきます。
初めに担当したのは、東食と英国WIMPY INTERNATIONALの合弁である東食ウインピーでした。英国側が強く望むFC(フランチャイズ)展開でしたが、本部での購買部門や商品開発部門のスタッフの方々と懇意にさせていただき、さまざまな知識を得ることができました。商社系ですので取引業者は多かったのですが、時間をかけてパッケージ類を獲得していきました。時にはマクドナルドの新メニューを銀座三越店まで買いに行く手伝いや、商品開発のテーブルに同席して議論を伺ったこともあります。スタッフの真剣さも誠実さも伝わり、取引出来たことは幸せでした。全く知識も情報もない一業者の担当でしたが、バンズやパティなどの用語から、調理やサービスの現場を知ることはその後に大変役に立ったと思います。どうしてこのパッケージなのか、パッケージをどう使うのかをつぶさに見ることが出来たのです。
東食ウインピーと同じ年にスタートしたミツカンのハンダスは、赤坂見附と巣鴨駅前にお店がありましたがほとんど取引がなく、お店に通うことから始めました。両店とも繁盛店ですので忙しい時間帯を避け、マネージャーや店長にできることはありませんかと頼むのですが、簡単に取引ができる筈もありません。1年ほど通いながら、とある商品の話題になりました。「できるなら見積もり頼むよ」と声がかかったのです。それから2年余り、何とか主なパッケージを納入することができました。後日マネージャーから「根気負けしたよ」と伺い、一層嬉しかったのを覚えています。
続いて消耗品だけの取引だったロイヤルホストジュニアを担当しました。3代の店長と親しくさせていただきましたが、皆、全国展開への夢を抱いて頑張っていました。一番手ごたえを感じたのは若い店長もクルーも、ハンバーガービジネスに誇りを持っていたことです。
ある日偶然目にした新メニューの試食会で、事業部長の言葉に真剣な面持ちで頷き、試作を繰り返す店長たちの姿がありました。そのメニューはタコスでしたが、新宿三井ビルのテラスに面したホストジュニアで、ビールとの相性も良く、人気メニューとなっています。その時の事業部長が稲田直太氏で、後にロイヤルの社長になられた方です。
このホストジュニアですが、後年大きな話題を提供することになります。1986年11月にベッカーズ1号店として再出発したのです。このことは次回に触れたいと思います。
次に渋谷公園通りのハーディーズに通いました。ハーディーズは海外市場に詳しい大手商社兼松の外食事業で、アメリカの有力ハンバーガーチェーンの一つです。出店は少し遅い1976年ですが、1号店は渋谷公園通りという場所柄もあり、ガラス張りの明るい店舗でした。事業部長とマネージャーにお会いし、最初に人柄に惹かれました。商社員としてハンバーガーショップに出向した部長は、淡々と笑顔で話しを聞き、時折質問があります。丁寧に答えながらマネージャーを振り向くとニコニコ笑っています。お互いに良いパートナーだなと思いました。時間を掛けながらパッケージを採用いただくなかで、マネージャーとは住まいが近かったこともあり、何度か一緒に帰ったことがあります。商社マンならではの話が面白く、部長との信頼関係やハンバーガービジネスへの熱意も伺いました。
しかしながらハンバーガー業界の競争は厳しく、有力大手の価格攻勢やキャンペーンに振り回されることになります。何度となく繰り返される揺さぶりに、中小のチェーンの多くは帆弄され始めました。そしてそれぞれの事情で、事業の縮小や撤退を余儀なくされていったのです。まるでその後に起こるバブル崩壊のように。
東食ウインピーでは事業撤退が決まったときに、最後のお別れ会に声をかけていただきました。若いスタッフの方から漏れ聞いた、直営店があればもっと頑張れたのに…という言葉は、当事者の偽らざる気持だったでしょう。折角大きな市場が見えているのに、チャンスをものにできないもどかしさは、スタッフ全員の思いだったと思います。しかし努力が無駄になったわけではないのです。それぞれに次の新しいチャレンジをしながら、前に進んで行ったのですから。
その後、東食が米国で買収したビジネスの中にハンバーガーショップのブランドがあり、再度日本に出店を果たしました。1992年に巣鴨駅前に開店したラッセルズがそれで、念願の直営店でした。ディッシュプレートメニューを開発するなど、ロケーションに沿った努力を続けましたが、残念ながら1998年に撤退しています。巣鴨店でハンバーガーをドレス(包装)しながら、来店されたお客様に大きな声で「いらっしゃいませ」と繰り返す、竹口店長の姿とそのお声は、今でもはっきり記憶に残っています。
またミツカンのハンダスは10年の節目を迎えた頃に、親会社の方針で事業を売却して撤退となりました。ハンダスの名前の由来ですが、親会社のミツカンが愛知県半田市にあるということもあるのですが、店舗の入り口のドアノブが手を握る(握手)の形なのは、「ハンドinハンド」がテーマだからと聞いたことがあります。フードサービスの目的を見据えた決意に共感し、その熱意を感じていました。
赤坂見附という有力ロケーションにあり、採算も悪くなかったでしょうが、マネージャーや店長がどんなに頑張っても結論は変わりませんでした。親会社からの最終決定を受けて、最後にお誘いがありました。「とても残念ですが決定が出ました、今まで本当にありがとう」と慰労の言葉を掛けていただいたのです。しかし本当に悔しく、無念なのはマネージャーや店長やクルーの方々です。まだご自分たちの今後も定かでない中で、赤坂の居酒屋で語られた「小林さんにはお礼を言いたかったので」という言葉に、塚本マネージャーのお顔は滲んでしまい、見えなくなっていました。
ハンダスの赤坂見附店はほどなくファーストキッチンに替わり、その後1991年にはサブウェイの日本1号店となります。
兼松のハーディーズも事業撤退のための譲渡が決まりました。その後の方向性も見えない中で撤退を担う。ある兵法には撤退(退却)戦が一番困難だ、とあります。ビジネスの極限状況ともいえるその時に、部長やマネージャーはどうお考えになり、どう奮い立っていたのでしょうか。本社に戻るという事業部長の「どこでも仕事はできるので」というつぶやきに、おかけする言葉が見つかりませんでした。
その後のハーディーズはビアンという会社の運営に代わりました。名前を出せないボトラーズの子会社でしたが、それでも長くは続かなかったのです。
こうして多くの企業が市場から去りました。外食事業においては現在も新規参入や事業撤退が繰り返されています。そして今後もそうしたシーンは続くことでしょう。
2021 年 7 月
小林 文夫